こんにちは! 岩渕美智子です!

HPをクリック頂くとは何というご縁でしょうか!
ありがとうございます!

少し私のことを紹介させて頂きますね。サラッと5分で読めますので。
もしWikipediaを見ていらしたら、「岩渕美智子とは何たる人物か」と思われたかもしれません~。
はい、私はこれまで6回の選挙に出馬して全て落選しています。

私だってそんな人に出会ったら「何を考えているの、変な人」と思うでしょう。
一方、私と直接会った人達は、私がごく普通の女性だと思いつきあってくれています(のはず)。
なので悪い印象を与えるWikiを恨んでいました。Wikiは自分で消すことはできません~。

そんな折り、若い友人がアドバイスをくれました。
「岩渕さんは変な人ではないし、どうしてそういう道を辿ってきたのか、オープンにした方がいいですよ」。私は「そうね!」と思いました。

今まで選挙の出馬を隠していた自分がいました。誤解を招くだろう、理解してもらえないだろう、と。でも6回選挙に出たことも含めて「岩渕美智子」です。 だから思い切ってその経緯をオープンにさせて頂くことにしました!

少々お付き合い下さいね。

(序章)「人間の不条理」に憤慨した10代

14才、中学2年生の時、テレビでは毎日ベトナム戦争のニュースであふれていました。
今、ウクライナ紛争が日々映像で流れるように、戦争の悲惨な状況が映し出されていたのです。
「なぜ人と人が殺し合わなければならないの?」「なぜ女性や子どもが逃げ惑い、吹き飛ばされなければならないの?」と心を痛めました。

高校生の時には、水俣病が大きく取り上げられました。
これも「なぜ普通に暮らしていた人達が、突然苦しまなければならないの?」。
中には生まれながらに病を背負ってくる人もいます(胎児性水俣病)。「彼女が何をしたと言うの?」

自分に落ち度が無いのに、突然の不幸に見舞われる。「なぜ? どうして?」。
これが「不条理」だと知りました。
ベトナム戦争や水俣病は次第にニュースから消えていきましたが(今でも痛みを背負った人達は多くいます)、私の中では、「できるならこの不条理を世の中から無くしたい」という想いが生まれました。

〇その後、大学、就職、留学、大学で教員、宮城県庁で特別任命、と進みますが飛ばします。

(1)杜の都、仙台での挑戦

大学の教員を辞職し、宮城県庁での3年間の特別任命を終え、私は東京に戻る予定でした。
県庁では環境生活部次長という職を知事から与えられ、我ながら必死に取組みました。

仕事の一つが県内で活動するNPOの支援や、県庁とNPOとの橋渡しを行うことです。
私は県内の100以上のNPO団体と面会しました。一言で言うとそれは「感動の出会い」でした。

子どもの虐待、いじめや自殺、障害者福祉、環境問題、男女共同参画、町の活性化、経済格差や困窮者支援、平和・人権、その他あらゆる社会問題に取り組むNPOの方々と出会い、大きな学びがありました。

正に「不条理」があれば文句を言うのではなく、自ら行動し解決してく。そうい人達だったのです。
私は勇気づけられ、県庁では「みやぎNPOプラザ」の創設、NPO条例の制定、行政との協働など様々な政策を進めました。

そして任務が終了し、東京に戻るという状況の中~。その年に仙台市長選挙が予定されていました。
約180名の方々が集まって、「県庁でNPOに尽力してくれた手腕を、今度は仙台市政で発揮してほしい」と私に「市長選挙出馬要請書」が渡されました。

県庁で仕事の手応えを感じていた私は、素直にその要請を受け、無所属での立候補となりました。
力を合わせ、百万都市の杜の都を駆け抜けました! 結果はーーー? 現職に敗れました。

(2)松戸市での挑戦

人生初の選挙に敗れ疲れが残っていたところ、翌年、千葉県松戸市の市民から突然連絡が入りました。
「今度、松戸の市長選挙がある。是非あなたに候補者になってほしい」と。私は耳を疑いました。
松戸市は住んだことも、遊びにいったこともありません。

「どうして私に?」
「あなたの活躍ぶりはこちらにも伝わっていますよ。地元の人間では『地元のしがらみを断つ』ことは難しい。女性でクリーンな人に是非挑戦してほしい。一度来て下さい」とのこと。

私は意味がよくわかりません。失礼無きよう、松戸までお断りに行きました。
ところが~。到着すると10数人が集まり、強力に説得されました。私は無理だとお答えし、押し問答でとうとう夜が明けてしまったのです。その晩は参加者の女性の家に泊めてもらい朝がきて~。

私は一晩考え、「こうまで言って下さるのなら、ここにやるべき仕事があるのだろう」と受けることにしました。(無所属)
力を合わせ、人口47万の都市で一生懸命声をあげました。結果はーーー? 現職に敗れました。

(3)静岡県での挑戦

東京に戻った私はあるシンクタンクの研究員となりました。そのシンクタンクは京セラ会長の故・稲盛和夫氏が、「民間の独立系シンクタンクの存在は大事」と出資していました。

成果報告のため、稲盛会長とは数回、東京駅近くの京セラビルで、直接教えを頂く機会を得ることができました。正義感と気骨があり、優しくて厳しくて、本当に素晴らしい方でした。
当時、永田町では民主党が勢力を伸ばし、稲盛会長は民主党とも深い縁がありました。

そこへ民主党から、「静岡7区に女性候補を立てたい。誰かいないか」とシンクタンク代表に声がかかり、「彼女がいます」と私が紹介されたのです。
静岡7区は現在は浜松市に合併された浜北市、天竜市などを含む地域で、行ったことはありません。

さんざん迷いましたが、稲盛会長から「後援会名誉会長になるから」と押され、心が定まりました。
力を合わせ、一生懸命戦いました。結果はーーー? 自民党系新人に敗れました。

(4)千葉県での挑戦

世の中にはいわゆる「小泉旋風」が吹き荒れていました。
「自民党をぶっ壊す!」「郵政民営化!」などを掲げ、衆院選挙では郵政民営化に反対する、野田聖子、平沼赳夫、亀井静香、衛藤晟一、武田良太といったベテラン議員も、刺客候補をぶつけられるという激しい選挙が繰り広げられ、正に小泉劇場でした。

小泉首相の改革路線は必要と思いつつ、その背後にいわゆる「新自由主義」的な傾向、つまり「弱いのはあなたのせい」といった「自己責任論」の臭いをプンプンと感じ、私は懐疑的でした。

そこへまた一つの出会いがあり~。亀井静香という政治家と出会ってしまったのです。亀井氏は国民新党を立ち上げていました。亀井氏の前で私が小泉首相を批判すると~。
人情家で、戦略家で、手練手管(?)の政治家です。「ならば貴方が参議院選挙に千葉県から出馬しなさい」となり、あれよあれよと立候補となりました。

千葉県中を一走り回って、一生懸命戦いました。結果はーーー?国民新党全体が埋没し落選しました。

(5)小金井市での挑戦

大学で非常勤講師となり、並行して学校法人の理事に就任するなど、落ち着いた生活に戻りました。
私はある日、NPO主催の環境問題の講演会に参加し、質問など活発に行っていました。それがある女性の目に留まったのです。小金井市で環境保全の問題に取り組む活動家でした。連絡先を交換すると~。

「今度、小金井市長選挙がある。貴方の経歴もみた。是非出馬してほしい」と連絡が入りました。
当時、小金井市はゴミ焼却施設の件で市政が暗礁に乗り上げ、1年の内に2度、市長選が行われるなど混乱していました。

彼女は熱心で、会わせたい人がいると、市議会副議長や地元の市議さん達をどんどん私に紹介し、市のゴミ問題についてレクチャーを受けました。多くの人が、新しい市長を望んでいることがわかりました。

でも落選続きの私です。当然、「また失敗を重ねるだけだ」と頭をよぎりました。
一方、小金井市は親戚が住んでおり、父方のお墓も近く、ご縁は感じていました。

「是非挑戦して!」という声に、ご祖先様からの呼びかけなのだろうか? そして、松戸市の時と同じ感覚、「ここに自分がやるべき仕事があるのでは?」が湧いてきて、立候補となりました。(無所属)

人口12万人の町で朝晩、駅頭をしっかり行い、町中を走り回りました。結果はーーーー? 元都議会議員の男性が当選しました。

(6)参議院全国区での挑戦

「もう選挙は出ないよね?」。家族の切実な願いです。私も落選はやはり相当身に沁みます。
一方、5回チャレンジして全部失敗、というのはどこか心残りではあります。

そうした中、日本維新の会の女性議員との出会いがありました。日本は国政の場で女性議員の比率は衆参合わせ10%余りと惨たんたる状態であり、彼女から立候補を促されました。

また丁度その時、日本維新の会は「大阪都構想」を掲げていました。「大阪府と大阪市の二重行政を改め、無駄づかいを無くす」という主張はよくわかりました。

私が宮城県庁に奉職し、政令市である仙台市と二重行政がいくつもある、と感じていたからです。
市が全面ガラス張りの斬新な図書館を新設し、県は有名な建築家による図書館を新設する。実際の話であり、似た例は他にもあります。他県の県庁と政令市でも同じような競い合いが起きていました。

「これが賢い血税の使い方だろうか?」。私は大いに疑っていました。
維新の目指す改革が日本全体への改革につながるならと、面接を受けて出馬となりました。

ただいろいろあって、党の公認を受けたのが6月26日、投票日が7月21日。一か月も無く、今回は珍しくプロの選挙参謀がついてくれたのですが、あまりに無謀でした。結果は落選です。

(7)目黒区医会議員選挙

とうとう私の選挙人生(?)最後となる目黒区議選に出馬しました。私の今までの歩みを見て「貴方にはチャレンジがふさわしい」と支援して下さる方々に強く背中を押されました。

目黒区は落ち着いた街並みですが、約20年前には区長が自殺するといった暗黒史もあります。生まれ故郷の目黒を良くし、それを東京に、全国に広げたい、との思いで立候補となりました。

ところが~。コロナに罹患し、熱が下がった後も味覚を失い強い倦怠感が残る、という後遺症が発生。結局、体力不足で、朝晩や日中の街頭演説は一度もできず、選挙カーは無し、挨拶回りも控える、事務所も持たず、という「無い無いづくし」の異例の選挙活動となりました。

「これでは当選しようがない」と思いつつ、自分の政策を世に問いたいとやり抜きました。結果はーーー?当選には至りませんでした。

(8)ここまでお読み頂きありがとうございました。(大分はしょりました。)

選挙の種類も政党も違って出馬しましたが、根底にあるのは10代からの「世の中から不条理を無くしたい」という強い想いです。それが自分の中では一貫しています。
でも、やはり「変な人」という印象は変わらなかったでしょうか?

ただ直接会って頂くとわかりますが、私はグイグイ前に出るタイプではなく、話すより聞く方が好きで、とても選挙を重ねるようには見えないと思います。ご安心下さい。
私も年を重ねてきました。世間様に少しでもお役に立てるよう、心掛けて参ります。

また選挙を一緒に戦い、支えて下さった方々には、今でも心から感謝しています。誠にありがとうございました。 そしてこうしてご縁を頂いた皆様、今後とも宜しくお願い致します。

岩渕 美智子